鈴木康之著『新・名作コピー読本』という書籍を紹介する。 鈴木康之氏著の『新・名作コピー読本』という書籍は、名作のコピーを教材にして、そのコピーの優れた部分を解説している書籍です。「学ぶ」という言葉の語源は「真似る」だと聞いたことがあります。優れたコピーを見て、その本質を真似ることにより、優れたコピーを書けるようになっていくのだと思います。鈴木康之氏著の『新・名作コピー読本』には、仲畑貴志氏、糸井重里氏、小野田隆雄氏などのたくさんのコピーライターの作品が掲載されています。コピーを書く際の着眼点を学ぶ方には

鈴木康之著『新・名作コピー読本』という書籍を紹介する。

鈴木康之氏著の『新・名作コピー読本』という書籍は、名作のコピーを教材にして、そのコピーの優れた部分を解説している書籍です。「学ぶ」という言葉の語源は「真似る」だと聞いたことがあります。優れたコピーを見て、その本質を真似ることにより、優れたコピーを書けるようになっていくのだと思います。鈴木康之氏著の『新・名作コピー読本』には、仲畑貴志氏、糸井重里氏、小野田隆雄氏などのたくさんのコピーライターの作品が掲載されています。コピーを書く際の着眼点を学ぶ方には適した書籍だと思います。

鈴木康之氏著の『新・名作コピー読本』という書籍はコピーライティングのビギナーの人達に読んでもらうために書かれた書籍です。広告ジャーナリズムの世界で、クリエイティブの世界で、日々の仕事の世界で、「コピー」というとその十中八九は「キャッチフレーズ」か、それに類するもの、それに準ずるものを指しています。キャッチフレーズは漢字で「惹句」と書くとおり、人の心を惹きつけ、関心をこちらへ向けさせ、次のステップ(例えば、ボディコピーやスペックを読むこと、あるいは何らかの行動とか)へ誘いこんでいくのが役割です。その役割を果たすために、声の大きさにも似た派手さ、華やかさ、面白さ、言いたいことへの明解さ、すばやさ、強引さなどを持ち備えている必要があります。これの効果をより大きくするためには、デザイン(レイアウトやタイポグラフィー)や写真やイラストレーションの力が大で、それらとの連携プレイの中にあるのがキャッチフレーズです。ボディコピーはというと、話をするのが役割です。ひとことで言えば説得の仕事といったらいいでしょう。新しいことを説明したり、主張を聞いてもらったり、それで頷いてもらって、できればその後に行動をしてもらう、少なくともこちら向きの姿勢になってもらうのが役目です(2頁参照)。

 キャッチフレーズは、広告のコピーの中の花の部分ですから、葉や根をどんなに立派に作ることができても、最も美しく、魅惑的であるべき花の部分を作るのが下手であってはいけません。しかし、コピーライターの本当の力量はボディコピーの方で見ることができます。ボディコピーには、「スペックを表現に仕立てる」才能と努力が練りこまれてあるはずだからです。素晴らしいボディコピーが生まれるためには、よい商品、よいオリエンテーション、よいデレクションなど、必要な条件が数え切れないほどあります。コピーライター内部のことで言えば、何を書くべきかを決める頭脳、どう書けば分かってもらえるかを知る常識、どう表現するかに悩まない言葉のセンス、そして①②③の不足を補う努力の四つです(17頁参照)。

コピーライターは、情報の送り手のための手伝いであり、同時に受け手のための手伝いです。どうしたらよく送ることができ、どうしたらよく受け取ることができるのか、そのために考えて工夫する技術者です。コピーもまた他のあらゆるジャンルの文章と同じように「いかに書くか」の努力が大切ですが、コピーは書き手側のその「いかに書くか」だけでは成立してはいけない文章です。コピーが求められ、役に立つ世界をマーケティング・コミュニケーションの世界と言ってもよいでしょう。このマーケティング・コミュニケーションの世界では、言葉は「いかに伝わるか」、「いかに読まれるか」で書かれていなければ具合が悪いのです(244頁参照)。

広告記事を書くコピーライターとは、情報の送り手のための手伝いであり、同時に受け手のための手伝いです。コピーライティングのチェックは、分かりやすいか、読みやすいか、面白いか、内容が面白いだけでなく文章それ自体が面白いか、ためになるか、知りたいことが早く分かるか、楽に快く読み終われるか等々です。「読んでくれる人」を想定すると、方法や、気をつけなくてはならないこと、やらなくてはならないこと、などがスルスルと出てきます(245頁参照)。

 コピーはサービスです。サービスをするのは、コピーライターの「気」がするのです。サービスがテクニックのことなら、「気」はコピーのクオリティです。では「気」は「サービス精神」のことかというと、その逆に、「サービス精神」は「気」であるとは言えるのですが、「気」は「サービス精神」よりもっと大きく広くメラメラしたものです。普通、「気」という言葉と「心」という言葉は同じように使っています。「気づかい」とも「心づかい」とも言います。「気の持ちようで」とも「心の持ちようで」とも言います。しかし、夏目漱石の『道草』という小説の中に、「心は沈んでいた。それと反対に彼の気は興奮していた」という文章があります。実際に、「心」と「気」は異なっていて、「心」は沈みきっているのに、「気」はピリピリしているといったことも少なくありません。「気」と「心」とは、どのように異なっているのかというと、「心」というものは、本来、内に向かって閉ざされているものですが、「気」は外に向かって、一種の目に見えない触手のように動いているものです(249頁参照)。

「気」は、「心」の周囲から出ている目に見えない触手、あるいは、波長のようなものですから、その触手に触れたり、波長を合わせてとらえたりしなければ、相手の「心」の中に入ってはいけないものです。「気」という触手、あるいは波長がこちらを向き、相手がいよいよ「その気」になって、ようやく相手の「心」が開きます。こちらの「心」を相手に伝えます。こちらの「心」は、こちらの「波長」である「気」によって外へ表現されます。例えば、わずかなおすそわけという行為には、こちらの「気」が入っています。だから、いいのであって、その「気」が相手の「気」をとらえるのです。相手の閉ざされた「心」の中に入る方法は、相手の「気」に働きかけるより他に手がありません(253頁参照)。

「気」とは「目には見えない触手のようなもの」です。「目には見えない触手のようなもの」とは、つまりコミュニケーションのための光や電波のようなものです。それに乗って、あるいは伝わって、言葉や音や色や形、意味を表現する様々なものが向こうへ届くのです。「気」はオーデコロンの香りみたいなものです。軽い香りです。ふっと飛んで、他人の感覚に挨拶を送ります。コピーは「気」で書きます。だから軽くて、快いのです。「気」がコミュニケーションの触手であるということは、「気」という言葉の使い方を並べて見ても分かります。気が大きい。気が小さい。気が長い。気が短い。気が重い。気が軽い。気が強い。気が弱い。・・・・・。可変性があって、危なっかしいほど、不安定なものなのです。自分次第で、コミュニケーションとして役立ちもするし、無駄になったりもします(253頁参照)。

何気なく見ていた広告記事もこのような視点から読んでみると、コピーの奥深さが分かります。