令和5年1月11日、世阿弥著、竹本幹夫訳注の『風姿花伝・三道』という書籍を読破した。 令和元年11月20日(水)のNHK『歴史秘話ヒストリア-そして能は生まれた 世阿弥 時代を超える戦略-』を観て、宇宙飛行士の方が世阿弥の『風姿花伝』を愛読していると紹介され、何か宇宙飛行士と能との組み合わせに違和感を得、『風姿花伝』に興味が湧き、読むことにし、令和5年1月11日、世阿弥著、竹本幹夫訳注の『風姿花伝・三道』という書籍を読破しました。 私が世阿弥著、竹本幹夫訳注の『風姿花伝・三道』という書籍を読んでいる最

令和5年1月11日世阿弥著、竹本幹夫訳注の風姿花伝・三道』という書籍を読破した。

令和元年11月20日(水)のNHK『歴史秘話ヒストリア-そして能は生まれた 世阿弥 時代を超える戦略-』を観て、宇宙飛行士の方が世阿弥の『風姿花伝』を愛読していると紹介され、何か宇宙飛行士と能との組み合わせに違和感を得、『風姿花伝』に興味が湧き、読むことにし、令和5年1月11日、世阿弥著、竹本幹夫訳注の『風姿花伝・三道』という書籍を読破しました。

私が世阿弥著、竹本幹夫訳注の『風姿花伝・三道』という書籍を読んでいる最中には、令和5年10月18日、NHKの『知恵泉』で、「世阿弥・競争社会生き抜く“プロデュース力」という番組が放送され、世阿弥がどのような人生を歩んできたのかの概略を知ることができ参考になった。ちなみに世阿弥の人生に関しては、世阿弥著、竹本幹夫訳注の『風姿花伝・三道』の383頁以降の解説の章で詳細に記載されている。波乱の人生であり、足利義満に愛顧され(392頁参照)、世間では名人としてもてはやされ活躍していた(394頁参照)。しかし、足利義教が将軍に就くと、情勢は一変する。義満・義持二代の将軍の下で認められてきた特権的な地位が、新将軍の義教によって突然解消されたわけであり、世阿弥父子としてはひたすら当惑するばかりだったのではあるまいか(408頁参照)とある。

能の大成者である世阿弥の著作なので、読む前、風姿花伝』は芸を極める書物だと思っていたが、『風姿花伝』はどちらかというと興行を成功させるための重要事項を記載したもののように思える。「とくに心得ておくべきことがある。鑑識眼の高い上流の観客が鑑賞するのが、品位や芸位が最高の役者である場合は、このうえないぴったりの組み合わせであるので、問題はない。そうじて、鑑識眼のない連中、遠国田舎の庶民の鑑識眼では、この品格・芸位の高い能芸は理解できない。こういう場合、どうしたらよいであろうか。能の芸というのは、多くの観客に愛され親しまれることを福徳とするのである。したがってあまりに高踏的な芸風ばかりであっては、やはりすべての人の賞賛を獲得出来ない。このために、これまで演じてきた演目を忘れずにいて、時と場所に応じて、鑑識眼の低い観客でもすばらしいと思うように能を演じることこそが、福徳なのである(202頁参照)」という文章が、そのことを表しているように思える。つまり、観客に合わせた出し物を選ぶこと、時や場所、観客の特性が重要だと述べているのである。

一方、『三道』は、芸を極める方法、卓越した能演目を作成するための重要事項を記載したものである。世阿弥は『風姿花伝』を通じ、いかに花を咲かせるか、常に舞台で成功する「まことの花」をいかに獲得するかを最大の課題としてきた(295頁参照)。それらは、能作によっていかに舞台を成功に導くかという、いわば戦略のための能作の効用を説いたものであり、能作上の工夫も、音曲と所作の関係などのような限定的な局面に関する故実で、能姿の理想像を提示したり、制作過程の全体を説き示すものではなかった。いうなれば、棟梁の為手としての見識に資するための能作論であった。これに対して『三道』は、歌舞幽玄能を能の理想的姿と定め、そうした作品を制作するための典型的な作法の全体像を論じたものであり、本格的な制作論と評価できよう。事実、ここで説かれるところは、実際の能の設定とも共通しており、世阿弥の歌舞能の構想が、彼の発明によるものであることを何よりも雄弁に物語っている(314頁参照)。

『三道』とは、三つの局面の意味であるが、もちろん、能作のための三過程を言うための命名なのであろう。素材選択(種)・構成設定(作)・詞章制作(書)の三つがそれである。これは能のみならず、起承転結のある作品を執筆する場合のすべてに当てはまる原則であり、非常に普遍性の高い理論と評価することが出来よう(315頁参照)。作(構成設定)に関して重要なのは、序・破・急であり、五段に分かれる(312頁参照)。

世阿弥は『風姿花伝・三道』などの書物を通して、現代にも通じる論理を提供している。中でも、「初心を忘るべからず」、秘すれば花なり」であろう。「初心を忘るべからず(268頁参照)」とは、芸格が上がるに従って、今まで演じてきた作品をやり捨てにして忘れてしまうことは、まったくもって花の種をだめにするものであろう。未熟時代の芸を忘れてはならないことを伝えている(271頁参照)。「秘すれば花なり(279頁参照)」は、秘して隠すことによって花となるという道理を知ること。花の存在を人に隠せばそれが花になり、秘密にしないことには花になりえないということである。この秘するか秘さぬかで花の有無が分かれるという道理を知ることが、花にとって大事なことなのである(281頁参照)

次に、「時分の花」と「まことの花」について(30頁参照)。「さあ腕利きの役者が現れたぞ」というので、人も注目するのである。かつて名声があった役者などが相手であっても、新人の魅力に観客が新鮮さを感じて、競演の勝負などで若い役者が一度でも勝ってしまうと、周囲も過大に評価し、本人も上手だと思い込んでしまう。これはどう考えても、本人のためには害悪である。これは本当の魅力ではない。血気盛んな年齢と、観客が一時的に感じた新鮮さのもたらす魅力である。本当に鑑識眼のある観客は、この人気が偽物であると見分けるであろう。

この時期こそは、例え一時的にあったとしても、初心時代というべき時期なのに、もう申楽の世界を極めたかのように自分で思って、さっそく申楽について的外れの独善的見解を開陳し、名人気取りの演技をするには嘆かわしいことだ。たとえ周囲が賞賛し、名声のあった役者に勝ったとしても、これは一時的な珍しさの生んだ魅力だ、と自覚して、ますます能を正しくしっかりとやり、名声を獲得している役者に細々と具体的に質問するなどをして、稽古をいっそう進めなければならない。要するに、一時的な魅力を身に備わった永遠の魅力と思い込むことが、本当の魅力からいよいよ遠ざかることなのである。まさに、人はみな、この一時的な魅力に自分を見失って、すぐに魅力が失せてしまうものにも気づかない。初心というのは、この時期のことなのである(30頁参照)。

この「時分の花」の記述を読んで、一発屋の芸人が売れて天狗になり落ちぶれて行ったことや子役のタレントが子供独特の可愛らしさで人気者になったが、その人気を誤解して天狗になり、成長して大人になった後、芸能界から消えていった現象を想起した。「驕る平家は久しからず」、「無知の知ソクラテス)」という真理を常に心に留めておかなければならないと感じた。

では、花とは何であろうか?花と「面白さ」と「めずらしさ」、この三つは同じことなのである(251頁参照)。花というのは、観客にとって新鮮なのが花なのである。すべての演目を演じ切り、あらゆる演出を工夫し尽くして、能のめずらしさの何たるかを感得するというのが、能の花なのである(253頁参照)

加えて、世阿弥の秘伝に関する記述も興味深い。陰陽五行説に基づいている。秘伝とはどういうことかというと、万事につけて、陰陽和合する境地を成功と考えるべきである。昼を支配している雰囲気は能動的な陽の運気である。これに対し、出来る限り観客席の静まるのを待って能を演じようとする工夫は、受動的な陰の働きである。陽気の時間帯に陰気を発生させるのは、陰陽を調和させることである(96頁参照)。芸の上で花が生まれる因(原因)と果(結果)のことわりを知ることは、能の道の究極的な秘伝である。あらゆる事柄は因と果とによって成り立っている(287頁参照)。

そして、芸を上達させる方法として重要なのが、「物学条々」(43頁参照)である。つまり、「物まね」のことであり、44頁に「申楽の世界で最も大切な事柄」と重要性を説いている(44頁参照)。

世阿弥著、竹本幹夫訳注の風姿花伝・三道』という書籍は人生訓になる書籍だった。この私の書評を読んだ方々も「まことの花」を探求するために『風姿花伝・三道』という書籍を読んでみてはいかがでしょうか?