岡本克己氏著の『現代テレビドラマ作劇法』という書籍を紹介する。 私は、一時期(若気の至りで恐縮です)、作家を目指していた時期がありました。会社に通って働きながら、お金を貯め、自費でシナリオ学校の学費を払い、毎週土曜日にシナリオ学校に通って勉強していました。その時の教科書が岡本克己氏著の『現代テレビドラマ作劇法』という書籍であり、読破しました。現在は私も年齢が年齢だけに、そんな非現実的な目標はきっぱり諦め、会社員として長く勤め、しっかり生活していくことを第一にしています。今は、定年後に社会人向け大学院に通

岡本克己氏著の『現代テレビドラマ作劇法』という書籍を紹介する。


私は、一時期(若気の至りで恐縮です)、作家を目指していた時期がありました。会社に通って働きながら、お金を貯め、自費でシナリオ学校の学費を払い、毎週土曜日にシナリオ学校に通って勉強していました。その時の教科書が岡本克己氏著の『現代テレビドラマ作劇法』という書籍であり、読破しました。現在は私も年齢が年齢だけに、そんな非現実的な目標はきっぱり諦め、会社員として長く勤め、しっかり生活していくことを第一にしています。今は、定年後に社会人向け大学院に通い、日本のためになる学問を研究していきたいというのが夢です。


 シナリオの構成力は将来のビジョンを達成するための創造力に繋がります。ドラマのシナリオに関して申し上げれば、シナリオは虚構であり、嘘です。ドラマに偶然が全くないのではありません。ストーリー始まりの葛藤は、全て偶然です。発端の虚偽を、展開によって真実に変えて行きます。書き出す前は嘘。書き始めたら真実。グスタフ・フライターク氏の「偶然を排するための補足」とはストーリーを進める途中での「偶然」です(54頁参照)。シナリオを描くとは、シミュレーションすることです。虚構ではありますが、状況を想像し、各要素が相互作用によって、どのような化学反応を起こすかを思い描くことです。


 大抵の作劇法の著書は、ドラマの発端を説く前に、ドラマ全体の構造に触れてあります。確かに、それが順序というものです。ドラマを書く出す前に、始めからエンドマークまでを俯瞰して、エピソードを程よく配分する設計図を用意できれば、それに越したことはありません。プロットとか、更には緻密なハコ書きと云われる全体の構成がそれです。ハコ書きは、ドラマの始まりからエンドマークまでのシーンの繋がりをメモする設計図です。ハコを組むという云い方をしたり、大雑把なのを大バコと云ったりしますが、要はシーンを箱に見立てて、その箱を積み重ねて全体像を作ることです。ホロンという思想と類似するものであり、全体と個の有機的な調和を図るものです。私的な覚え書きですから、人それぞれで、型などがあるものではありません。ドラマを観る時、メモを準備します。ドラマが始まったら、その冒頭から、シーン毎に、自分だけに分かる言葉で要点を走り書きします。エンドマークが出た時に、当然、手許にシーンの走り書きが残ります。そのメモがドラマのハコ書きです。作家は原稿用紙の前あるいはパソコンの前に座る以前に、そのメモを用意していることになります(142頁参照)。


しかし、ハコ書きは恐ろしく根気のいる作業です。発端から結末までの起伏を客観的に見ながら、同時に主要人物それぞれから主観的に意志と感情を辿って行きます。ハコ書きは、客観と主観を綯交にした根気も体力も要る暗算です。綯交とは、縒りをかけて複数の筋状のものを混ぜること、あるいは混ぜて出来上がったものを指します。歌舞伎の脚本では、二つ以上のストーリーをからませることを、「ないまぜ」と云います。それぞれの異なったエピソードで始まった筋が絡み合いながら、やがて合流してより大きなエネルギーになってドラマを盛り上げて完結して行くという運び方はドラマの常道です(143頁参照)。


シナリオを考える際、「人物とストーリー」を考察しなければなりません。作家には、大別して二つのタイプがあるようです。ストーリーから着想して人物をはめ込んでいくのが得意な作家。もう一つは、人物から発想して、その人物を特別なシチュエーションの中に置いて揺り動かし、人物の意志と行動の軌跡が、自ずとストーリーを作って行く作家です。発想はどうであれ、出来上がった作品が興味深いものであればそれで良いのですが、「ドラマ」の場合に限ると、ストーリーから着想するタイプは、登場人物の存在をよくよく考えてやらないと人形遣いでも使いようのない血の通わない人形になってしまう落とし穴を持っています。逆に人物から発想するタイプは、人物の実在感に忠実であり過ぎるため、とるに足らない興味のない物語になってしまうという落とし穴が待ち構えています(133頁参照)。


神経質な云い方をすると、ドラマ作品を書く時には、三つのことを考えながら書き進めて行きます。①作家自身の作意(この話を通して、結局、自分は何を訴えようとしているのか)。いわば、書き手の都合。②この脚本の登場人物を俳優たちはそれぞれ乗り気で演じてくれるか(例えば、その俳優に会う時、脚本を手にした彼が「いやあ、この役は難しくて大変」と嬉しそうに云う・・・という情景の意味を見逃さないで欲しいこと。脚本は、俳優への心をこめたラブレターという一面はありますが、同時に挑戦状という一面もあります)。いわば俳優の都合。③そして、客は興味をもって、作者が伝達しようとすることを時間の流れのままにその都度、理解してくれているか。いわば観る側の都合。「俳優・作者・観客」は演劇を学問として考える時、最初の知識になる「演劇の(基本的な)三要素」です。これに劇場空間を加えて、四要素になったりします。三つの不可欠な要素を考慮しながら脚本を書き進めることになります(134頁参照)。


また、ドラマを書くという作業は、登場人物ひとりひとりの身になって考えるということです。日常、他人の身になって物を考える癖をつけておかないと、ドラマ作品を考える時だけそのことを考えても登場人物の気持ちを想像することは難しいものです。人物像にこだわっているうちに、いつのまにかストーリーに踏み込んでいます。人物が動いて、航行する船が航跡を残すようにストーリーがついて来ているはずです。人物とストーリーは全く一つの根であります。人物像を創るためにエピソードを考え、エピソードで人物像を創って行きます。人物が自ずとストーリーを作って行くとは云っても、ストーリーという考えが全く念頭にないということではありません。そのために、ドラマを発想する時には、まず「仕組む」。人物を動かし、ストーリーを展開するために、人物がその意志で動かざるを得ないように仕組みます。人物が動けば、ストーリーは展開します。人物もエピソードも、もう一つ高所から睨みを効かせているのは作意です。厳密に云うと、本来の作意のために、なぜこの人物達のこのエピソードが必要なのかという工夫と選択です(138頁参照)。


ドラマ作成以外にもシナリオを考える力は活用できます。特に、ビジョンを達成する際、その道筋を考えるのはシナリオ構成力です。通常、こういうビジョンを持った場合、こういう道筋でビジョンに到達しようと考えます。その将来への道筋こそシナリオなのです。また、シナリオは将棋や囲碁に似ています。私がこういう行動すると、相手はこう反応し、次に私がこう行動すると、相手はこう反応するだろうと展開をよんでいくところは、将棋や囲碁とそっくりです。将棋や囲碁には先を読む力が必要であり、シナリオ作成に類似する能力です。シナリオ作成には人間と人間との綾を読む力が必要なのです。シナリオ力は充分に社会生活の実践に応用できるものだと思います。

はっきりと申し上げますが、今は、会社員として平穏に長く勤めることが私の第一の希望です。