令和4年8月30日、 宇治谷猛訳の『日本書紀(下)』を読破した。 通勤電車内で読んでいたのだが、周囲がバタバタしていたり、コロナ禍でリモート出勤が多くなり、電車に乗らなくなったので、読む機会が減り、読破するのに時間が掛かってしまった。 宇治谷猛訳の『日本書紀(下)』は、欽明天皇から持統天皇までの時代が記載されています。仏教の伝来(35頁参照)、任那の滅亡(47頁参照)、蘇我氏の台頭(78頁参照)、聖徳太子の摂政(87頁参照)、冠位十二階の制定と憲法十七条(92頁参照)、遣隋使(99頁参照)、 遣

令和4年8月30日、 宇治谷猛訳の『日本書紀(下)』を読破した。

 

通勤電車内で読んでいたのだが、周囲がバタバタしていたり、コロナ禍でリモート出勤が多くなり、電車に乗らなくなったので、読む機会が減り、読破するのに時間が掛かってしまった。

宇治谷猛訳の『日本書紀(下)』は、欽明天皇から持統天皇までの時代が記載されています。仏教の伝来(35頁参照)、任那の滅亡(47頁参照)、蘇我氏の台頭(78頁参照)、聖徳太子の摂政(87頁参照)、冠位十二階の制定と憲法十七条(92頁参照)、遣隋使(99頁参照)、 遣唐使(128頁参照)、山背大兄王の死(144頁参照)、 乙巳の変(153頁参照)、大化の改新(159頁参照)、白村江の戦(222頁参照)、天智天皇の即位(229頁参照)、中臣鎌足に藤原姓を賜る(234頁参照)、壬申の乱(244頁参照)、天武天皇の即位(262頁参照)、大宝律令(286頁参照)、大津皇子の変(313頁参照)、持統天皇の即位(323頁参照)、藤原京遷都(343頁参照)、文武天皇の即位(347頁参照)等の学校における日本史の授業で習う事件が記載されている。ちなみに、天照大御神が女性なのは、天照大御神が最後に記載されている持統天皇をモデルにしているかららしい。そのことは、次田真幸全訳注の『古事記(上)』という書籍に記載されていて、「天照大御神が女神とされているのは、女帝の持統天皇のイメージも重なっているためと考えられる」(次田真幸訳『古事記(上)』94頁参照)、「上山春平氏は次のように述べられた。天照大御神には持統太上天皇の投影が見られる」(次田真幸訳『古事記(上)』173頁参照)、と解説しています。まあ、持統天皇の和風諡号が、“高天原”広野姫天皇というのも意味深である。

聖徳太子が冠位十二階を制定するのだが、宇治谷猛訳の『日本書紀(下)』を読むと、その後も、何度も冠位が変更されていることが分かります(182頁、225頁、299頁参照)。また、記載により、地震が頻繁に起き、日蝕を記録し、大赦、雨乞いが頻繁に行われていたことも分かります。特に、天武天皇以降、頻繁に広瀬大忌神、竜田風神が祭られています(268頁等参照)、加えて、鰥寡、孤独、篤癃(貧窮のため生活困難の者)という貧しい者達を救済していることも分かります(313頁参照)。

次に、「七年六月四日、直広肆の位を、・・・・。葛原(ふじわら) 朝臣臣麻呂、・・・・の七人に授けられた」という記載があります。この葛原(ふじわら)姓が、あの天智天皇中臣鎌足に授けた藤原姓(234頁参照)と深く関係していて、中臣氏の中での複雑な関係が伺えます。さらに、藤原不比等は、藤原朝臣史として、三年二月二十六日に登場しています(319頁参照)。

それから「八年冬十月二十日、白い蝙蝠(かわほり=コウモリ)を捕えた・・・・(342頁参照)」という記載がありました。白い蝙蝠(コウモリ)?日本に白い蝙蝠なんているのだろうか?ネットで白い蝙蝠(コウモリ)を調べてみると、シロヘラコウモリという白い蝙蝠がいることが分かった。熱帯雨林のジメジメした湿った森林地帯に生息し、コスタリカで観察できるそうです。本当に日本に白い蝙蝠(コウモリ)はいたのだろうか?

令和4年8月24日、NHKの『歴史探偵』という番組において、刑部皇子と高市皇子の円墳が話題になっていました。宇治谷猛訳の『日本書紀(下)』においても、262頁等に忍壁皇子高市皇子が記載されています。

古事記」は推古朝まで、「書紀」はそれより約一世紀ののちの天武・持統朝までを含んでいます。「記」「紀」の二書については、まず名称や生い立ちのことから考えなければなりませんが、「記」と「紀」の二字の使い分けがあります。「古事記」は古くは「フルコトブミ」とも呼ばれ、「古(いにしえ)の事(辞)を記した書物」という意味で名づけられました。他方、「日本書紀」は、本家である中国の例によると、書は記伝体(帝王のことを書いた記と、臣下のことを書いた列伝、その他を備えたもの)の歴史を言い、紀は編年体(年月の順に記述する形式)の歴史を示すものであります(348頁参照)。しかし、「日本書紀」の後を継ぐ次代の歴史書続日本紀」の養老四年(720年)の条には「日本紀」とあり、日本書紀という名称は用いられていないので、元来は「日本紀」と呼ばれたとするのが正しい。後年、「日本書紀」と書いてはばからなくなったのは、厳格さを失った俗流の所為であるとされています(348頁参照)。「古事記」と「日本書紀」は、ともに天武天皇の発意によって生まれています(350頁参照)。宇治谷猛訳の『日本書紀(下)』内でも、第二十九・天武天皇の下の巻において、「律令編纂と帝紀の記録」として記載されています(286頁参照)。)。